こんにちは 堂前忠正「青磁の世界」へようこそ 2006年9月、念願かなってホームページを立ち上げることができました。 このページは、焼物に興味を持ち始めた幼い頃のこと、青春時代のこと、 修業に入って感じたこと、陶芸の道へと決心したことまでを書いてあります。 少々長い文章ですが、お読み頂ければ幸いに存じます。 また改めて、別のページを設けまして創作過程に対してのさまざまな思い、 日ごろ感じていることなどを中心に、「創作日記」、 あるいは「ひとりごと」風に書き綴っていきたいと思っています。 ひとつの作品が完成するまでの過程、その様子を、そのページから感じて 頂ければ幸いに存じます。 はじめに、私がどうして陶芸の仕事を選んだのかをお話いたします。
1 私の住んでいる地域は九谷焼の主産地。 特に素地(きじ)を焼き上げる窯元がたくさん集まっている所です。
2 幼かった私は、 学校が終わると友人達と近くの窯元へよく遊びに行っていました。 目的は平べったい、 せんべいみたいな、ハマという焼き物を拾いに 行くことでした。 ( ハマ=湯のみなどを乗せて焼く為の薄いもの ) それを持って川へ行き、水面めがけて投げるのです。 そうすると、そのやきものは勢い良く水面をはねるように飛び、 5回跳ねた6回跳ねたと競い合いをしました。 そうこうしている内、その遊びにも飽き、私の興味は窯元で働いている 職人さん達へと移りました。 友人達と遊んだ後、再び窯元へ行き、窓越しから職人さんたちの仕事を 時の過ぎるのも忘れて見入っていました。 それはまるでマジック。粘土のかたまりが職人さんの手の動きひとつで、 壷に、湯飲みに、皿へと変化していくのでした。 その様子が不思議で、またとても面白かったのです。
3 高校に入った頃、家が近いこともあり、 夏休み、冬休みはその窯元でのアルバイト。 幼い頃、飽きもせずに見ていたロクロがそこにありました。 休憩時間に使ってもよいとの事で、職人さんたちの手真似をしつつ、 ロクロを回していました。 ところが見ると行うは大違いで、まったく形にならないのです。 焦れば焦るほどロクロの回転で土が飛んでいったり、体中泥んこになったり。 しかしどういう訳か、そのことが嫌ではありませんでした。 何としても何かを作る、その思いにとりつかれていました。 仕事が終わった後ふたたび窯元へ行き、夢中になってロクロを回していると、 時計の針はいつしか午前零時を過ぎてしまっていました。 そしてある日の翌日、職人さんたちが話しかけてきたのです。 「素質があるじゃあないか、若いロクロ挽きはいないからワシらの後継者に なってくれ、お前ならできる」、毎日そのように言われ よし、それならば自分がと、次第に思うようになっていったのです。 実際、ロクロ挽きの仕事は誠に地味で、 一日中ひたすらロクロを回して形をつくるだけ、毎日がその繰り返し。 そして職人さんの殆どが還暦を過ぎた方々ばかりでした。 今ご存命でしたら、100歳近いでしょうか。 だから何も知らない若い私が飛び込んだものだから、余計私をその気に させたのだと思います、と同時に変な使命感も芽生え、 ロクロ技術を自分が守っていかなければ、などと思ったのです。
4 私の学んだ学校は商業高校、税務署への就職をけって本格的にロクロを やりたいと、卒業と同時に別の窯元に就職。 税務署就職を喜んでいた親は猛反対。 しかし私の決心は揺るぐことがありませんでした。 自分の進む道はこれ、誰にもひけをとらない、一番のロクロ師になりたい、 卒業間際にそう決心いたしました。
5 いよいよ本格的にロクロ修業の始まり。 高校時代、アルバイト先の窯元で、ある程度ロクロを操れた私は、 社長のすすめもあり、壷を作ることから修業を始めました。 その窯元でも若い職人は居なくて、加えて壷を作れる職人さんは 一人も居ませんでした。 外注で壷を作っている職人が居るからと紹介してもらい、 教えを乞うため何度も出かけましたが、私が行くとピタッと仕事を止めて しまうのです。 「続けてください」と何度お願いしたことでしょうか。 でも決して私の前でロクロを回すことはありませんでした。 ただ世間話をするだけ。 毎回毎回そのようなことが続き、どうしたものかと考えたあげくに、 一つのアイデアが閃いたのです。 ロクロを回すのを止められたけれど、 いま作りかけの壷が目の前のロクロに乗っている。 その指跡をしっかりと覚えることでした。壷の中の指の動きは想像でしか ありませんが、外側の指あとはハッキリ見えていました。 世間話が済むと急いで窯元に戻り、すぐ壷の製作。 先ほど見てきた指あとの動き通りに、壷作りの練習を繰り返しました。 この時もアルバイトの時と同じく、 夕方仕事を終え帰宅、夕食の後再び窯元へ。 私の為にと与えられた仕事場は、ガラス窓を隔てた外には山の斜面に 沢山の墓が並んでいる、なんとも寂しい、うす気味の悪い環境でした。 だ〜れも居ない窯元、 怖さをまぎらすため、どれほどラジオを聴いたことでしょうか。 夜7時30分から11時30分頃まで、ひたすらにロクロを回し続けました。 そうして帰る時間が迫るとドキドキし始めるのです。 それまでは鏡になっていた窓が 電気を消すと外の景色がいっせいに 目の中に飛び込んでくるのです。 ロクロ場をキレイに片付けていると、次第に恐怖感が増し、 外の墓を見ないようにしつつ、いち、に、の、さん、でスイッチを切り、 一目散で工場の玄関まで突進。そうして帰宅。 懐かしい思い出です。
6 修業をするということは給料が殆どもらえない事でもあります。 親にも反対されて入ったこの世界、出来るだけ早く収入を得るためにと、 このように 練習を重ねました。 でも私はまだ20歳、仲間作りがしたくて色々と考えました。 幼い頃から音楽が何よりも大好きだった私、自分の声で歌をうたおうと、 コーラスグループに入りました。そのグループは若い人達ばかりで、 なんとなく私と似通った人達がいて、日ごろの修業も忘れるくらい 楽しいものでした。 さまざまな曲を練習したり編曲したり。 またアカペラ男声曲のカルテットに挑戦したり。 ある時には施設を訪れて、そこで生活されていられる方々と楽しく一日を 過ごしたり。 また、焼き物を勉強する会にも入り、仲間作りもいたしました。 私のプロフィールにもあります、白陶会がそれです。 その勉強会には耳の不自由な方々4、5人も参加されていて、 たまたま私の席の後ろに座っていられ、講師の話をメモに書いて渡して いましたら、あるとき手話を覚えてくれませんかと言われ、 その方たちから指文字から手話を教えてもらいました。 現在と違って手話はそれほど一般に知られていなくて、 また福祉の制度も確立していませんでした。 市と掛け合って、手話教室を作ってもらえるよう働きかけたり、 地域ブロックの障害者福祉協議大会へも通訳として同行したり、 京都で行われた聴覚障害者と手話通訳者のあり方などの大会にも 出席いたしました。 とにかく何でも出来ることをしたくて、偶然にもイタリアの方に出会い、 人生論、生き方などについての交流を頂けたのも同じ頃でした。 修業を始めたころ、こうして色々な方々に出会い助けていただいたことが、 いまの私の作品の原点になっていると思っております。
7 そのようにして私の修業は毎日が忙しく、またとても充実していました。 同時に釉薬にも興味がわき、焼物の参考書を手本にして種々の釉薬の 試験も繰り返し行いました。 どうせやるなら難しいものを、 誰もやらない焼き物をの思いで好きな色でもある青磁に挑戦いたしました。 これも指導してくれる先生がいなくて、出版されていた参考書が 唯一私の先生でした。 ただ残念なことに、参考書どおりに試験をしても、 全く求める色合いに焼き上がらないことの現実があったのです。 でもそれは当たり前のこと、そっくり同じものが焼けるならば、誰も彼もが 素晴らしい作り手になれるのです。 そして、それぞれの環境も、また扱う原料もまったく異なっていますので 当然なのかもしれません。 そのように試行錯誤しているうち、 一種の鉄を使って試験した釉薬がとても素晴らしい発色をしたのです。 作品紹介のページ、『窯変鉄燿』の作品がその一種です。 窯元の社長の推めもあり、公募展に初めて出品。そして最高賞受賞。 まさか、冗談だろう?と思ったことが実感でした。 その後も運よく、公募展にも入選したり賞をもらったりいたしました。 それまで私の仕事を認めてくれなかった親が ようやく理解してくれる様になり、本当に安心いたしました。
8 ところが入選、受賞を重ねるうち、九谷焼作家達から 思いもかけない意見が出てきたのです。 その当時、九谷は分業制度が厳しく、窯元、問屋、上絵、九谷作家と すべての分野が分かれており、いわゆる縁の下の力持ち、 特に私のようなロクロひきが、表に出てはいけない時代だったのです。 そのタブーを私が破ったのでした。 今から35年ほど前のことです。 窯元でいつものようにロクロを回していると、 作家たちが来て意見をまくしたてていきました。 若かった私は次第にこの分業制度に対し強い不信感と反発を覚え、 それでも何としても自分の目標を達成するため、ひたすらロクロを回し、 青磁、白磁、鉄釉、辰砂の釉薬テストを繰り返し行いました。
9 仲間作りで知り合った友人のイタリア人に、 常日頃思っていることを相談しましたら、 「休暇でイタリアへ帰るから、もし来れるなら一緒に」、との事で 考えに考えたすえに、ヨーロッパ、イタリアで彫刻の勉強したいと思い、 渡欧の決心をしました。 友人の代母(だいぼ)がイギリス南部イーストボーンに住んでいるとの事で 紹介して頂き、そこを拠点にヨーロッパを見聞することにしたのです。 出発の日まで、費用を貯める為、信じられない位の仕事をいたしました。 その当時、円はドルに対して360円。又1ポンド760円あまり。 そのような私を見て、母が日に日に絶望感に陥っていくのが分かりました。 なぜなら、いつ帰るは決めていないヨーロッパ行きだったのです。 「お前なんかもう帰ってこんでもいい」が母の口癖になっていました。 出発の日、それでも母は駅まで見送りに来てくれました。 私の乗る列車が駅に入り、ドアが開いた途端、 それまで気丈に振舞っていた母が突然ホームに泣き崩れてしまったのです。 発車のベルは無情にもせかせるし、別れの言葉を告げられず私は列車に 飛び乗り、ドア越しに母の泣きじゃくる声と姿を見ながら故郷を離れました。
10 渡欧前、いかに安くイギリスに渡れるかを計算しましたら、 ロシア(旧ソビエト)経由で行くことでした。 横浜港〜ナホトカ港までフェリー。 ナホトカ〜ハバロフスクまで列車。 ハバロフスク〜モスクワまで飛行機。 モスクワ〜スウェーデンまで飛行機。 ここまでの6日間のツアーに参加して約17万円。 いま思うとかなり高額なツアーでした。 その後、ここからイギリスまで一人旅。 ふたたび飛行機を乗り継いでスウェーデンからイギリス、ヒースロー空港へ。 空港からビクトリア駅へ行き、イーストボーンまで列車を乗り換えて 駅に降りたちました。 こうして私のヨーロッパでの生活が始まりました。 33年前、22歳の時でした。
11 ヨーロッパ滞在で分かったことは、日本の焼き物が世界一ということでした。 私がヨーロッパに渡った目的は、 自分の作品の中に彫刻の要素を加えることでした。 出来ることなら、イタリアの工房に入れてもらいたかったのですが、 紹介状も何も無い身ではとても無理な話でした。 教会関係に働きかけて頂いたのですが、日本人は真似をするから という理由で何処の工房も受け入れてくれるところは無く、 諦めざるをえませんでした。 それならば自分の目を頼りになんでもみてやろうと イギリスを拠点にヨーロッパの国々を回ったのです。 私の物の見方はいろんな角度から徹底的に観察する、 それに徹することでした。 とくにメモなどはいっさい取りません。 ひたすら目に焼き付ける、この方法です。 それは今も同じです。 当初の目的はかなえられませんでしたが、 日本を離れることで冷静になって将来を考えることができ、 また他国の美術品や陶芸を観ることによって、改めて日本の陶芸の すばらしさを認識し、帰国いたしました。 その後の活動はプロフィール(陶歴)のとおりです。
このようにして私の陶芸、陶芸家活動が始まりました。 過去を再び振り返って書き連ねてしまいましたが、 私という人間を少しでも知っていただき、ご理解いただければ、 心より嬉しく幸せに思います。 どうぞこれからもご指導ご鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。 2006年 平成18年9月 堂前忠正